映画という体験

昨日「戦場でワルツを」を観た感想を書いたけど、それに絡んで「映画館で映画を観る」ということについて考えたことの覚え書き。
私はもともと特に映画に関心がある人ではなくて、子ども時代はどらえもんの長編とか宮崎アニメとか、小学校の高学年以降もハリウッドのエンタテインメント大作(インディ・ジョーンズとか、バック・トゥ・ザ・フューチャーとかそういうの)しか基本的に観ていなかった。普段はTVでやってたら観る、映画館へ観に行くのは数年に1回という感じだった。実家はイナカなのでレンタルビデオ店というのが普及したのは私が高校くらいの時で、それでも当時映画を面白く観た記憶はそれほど多くない。
と書きながら思い出したんだけど、高校の同じクラスにマイケル・ナイマン(現代音楽家)が好きな子がいて、その子のすすめでナイマンが音楽を手がけているパトリス・ルコントの作品をいくつかと、「ピアノ・レッスン」と、グリーナウェイの「コックと泥棒、その妻と愛人」を観たのは覚えている。ルコント作品はなんか「それっぽい」雰囲気はあるけど全体的に退屈だと思った。「ピアノ・レッスン」は暴力シーンがきついけどズドンと来て心動かされた。この映画の音楽には虜になって、今でも大好きで、ピアノを目の前にすると真っ先に弾きたくなる曲。「コックと泥棒〜」は、映画としてどう理解したらいいのか当時の私には分からなくて混乱したんだけど、とにかく感覚を刺激されまくって、気持ち悪いんだけどめっちゃ美しくてすごく興奮したのを覚えている。あと、その子が「愛人(ラマン)」が好きだったのでこれもドキドキしながら観た。別の友人の家に泊まりに行った時に「ナインハーフ」を観て楽しそうだなと思ったのも覚えている。まあ18歳になるまでの映画の記憶といったらせいぜいそんなもので。
大学に入ってからも特に映画には関心がなくて、とにかく時間があったら音楽を弾いたり聴いたりするという生活だった。映画を観るだけの時間と金とエネルギーがあるなら音楽のために使いたい、という生活。
そんな中、ヒマつぶしにとったイギリス文学史の授業が映画を観て論じるというもので、これが意外なくらい面白いと感じた。パゾリーニの「カンタベリー物語」にぶっとび、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」にしびれ、サリー・ポッターの「オーランドー」(ティルダ・スウィントン主演!)に驚嘆した。別の監督が撮った2本の「マクベス」と黒澤明の「蜘蛛の巣城」を見比べたのは興味深かったし、フランケンシュタインの怪物シリーズ、「嵐が丘」、「テス」、「マイ・フェア・レディ」なども原作と比較しながら考察していった。映画の面白さに開眼したのはこの時だったと思う。
それでもしばらくは「映画より音楽!」という感じで、映画への関心はそれほど高くはなかった。
それが3年くらい前に神経症を本格的に発症して、演奏会に出たり聴きに行ったりということがままならなくなり、音楽活動が制限されるようになってしまった。それで、今まで音楽だけに注ぎ込んでいた時間とエネルギーを他のことにもふり向けるようになって、だんだん映画との関係が近くなってきたのがここ2年くらいなのです。特に京都に引っ越して来てからは、街の規模が小さいので色んな映画館へ気軽に自転車で行けるということ、そして京都シネマみなみ会館という独立系ががんばってることで、映画館へ行くという行為が一気に身近で魅力的なことになった。いまや京都シネマの会員にもなって、ますます気軽に映画に行けるようになっている。
それで昨日「戦場でワルツを」を観て感じたのは、「これは圧倒的な体験だ」ということだった。
そう、映画館で映画を観るというのは、明らかに物理的な1つの「体験」なのだ。
ただ映像を見る、ストーリーを追う、というだけなら家でDVDを見ればこと足りる。でも映画館で映画を観るということは、時間を確保してその映画館へ足を運び、イスに深く腰掛けて、2時間とか3時間とか自分の存在・自意識を暗闇に溶かし込んで消してしまい、目の前でくり広げられる世界に没入するということだ。そういう物理的な手続きや枠組みを通過しなければ得られない何かが、映画館で映画を観るという行為の中には確実にある。
確かにわざわざ映画館へ映画を観に行くというのは、手間と時間と金がかかる。心身ともにエネルギーも使う。家で観るほうがずっと気楽だ。それでも、映画館で観ることによってしか手に入らないものがあるということに昨日気付いた。それこそが「映画体験」というものだろうと思う。
別に映画館で観るのが本物でDVDやTVで観るのが偽物だなどと言うつもりはない。それは優劣の問題ではなくて、どちらをより好むか、どちらを選択するかということなんだと思う。そして今の私は映画館で観るということのうま味みたいなものを知ってしまったことが、嬉しくもあり怖くもある。映画アディクトに、しかも映画館での鑑賞アディクトになってしまったら、どうしよう?
ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」を思い出す。悲惨な生活を送っている主人公(ミア・ファロー)が、観ていた映画の世界の中で束の間の幸せを味わい、そしてまた悲惨な生活へと戻って行く映画。映画は映画、人生(リアルライフ)は人生。それを知っているからこそ、人は映画を必要とするのだろう。