斎藤環「心理学化する社会」

読んだのは2週間くらい前ですが。
分析の鋭さは秀逸。特にロジャーズ派への批判、少年犯罪報道への批判にはかなり同意できる。
だが、斎藤のマスメディアにおける自らの立ち位置(自分はどのような立場から発言しているのか)についての言及には納得できないものを感じた。「精神分析の専門家でない自分が精神分析的な視点からコメントすることによって、『このメッセージを安易に信じるな』というメタメッセージを送っている」という斎藤の主張は、業界の内輪の人間にしか通用しないものではないだろうか。私だって本書を読むまでは斎藤のことを精神分析医だと思っていた。殊にラカンに詳しいということが露出されているし、誤解してしまうのも無理はないと思う。そもそも精神分析の専門家かそうでないかなど、マスメディアの受け手の大半にはにわかに判別し難いはずだ。
そして、本書の前半にあった映画(特にハリウッドもの)の分析に関しては、アメリカ文化と日本文化の違いについて全く考慮されないままに論じられていたことに不満を持った。斎藤が論じたいのは「日本社会の」心理学化なのか、それとも「世界規模での」社会の心理学化なのか、という点を明確にした上で、映画や小説などの分析はそれらが属する文化に対する考察のもとで展開されるべきだった。今自分が疑問に感じていることの1つが「なぜ欧米で流行した心理カウンセリングや精神分析が日本でこれほど受け入れられているのか?(文化の違いにもかかわらず。日本人には「個人」という明確な概念がないにもかかわらず。)」であるので、余計に斎藤の日米ひとからげの論じ方を残念に思った。
とは言え、「心理学化」という概念を一般に広く認識させた本書の意義は大きい。「被害者学」なるものについても勉強した方がいい気がしてきた。