「ライファーズ」上映会と同じ日のできごと

先週末は防衛術の講座(1回だけのお試しコースみたいなの)に参加。実は怖くて半泣きでやり始めたんだけど、やっていくうちにだんだん自分の力を感じるようになっていった。
「私には力があるんだ」、「私は自分で自分を守れるんだ」というのを実感できるのって、想像以上にすごい快感だった。
生身の人間相手に手加減なしで100%の力で攻撃練習できる講座だったので、余計にそう感じたのだろうと思う。いわゆるアドレナリンが出ている状態というのも、身体使用系では久々に味わった。(芸術系で感じるアドレナリンとは違うんだよなあ。「攻撃」という要素のあるなしが違いに関係してるのかも?)
私は格闘技のことって全然知らないんだけど、格闘技をやったり応援したりする時の心身の興奮に近いものを、あの時私も味わったのかもしれない。他の参加者がインストラクター相手に練習してるのを脇で見ながら、「いけーっ!」とか「やれ("殺れ")ーっ!」とか大声で叫んで「応援」してたもんなあ、私。
*以下、フラッシュバック注意!*
でもその一方で、防衛のためとはいえ他者に物理的暴力をふるうことに快感を覚えている自分が怖くもあり、グロテスクだし危険だとも感じた。「私を傷つける人間は傷つけてもかまわない」、「場合によっては殺してもかまわない」と、瞬間的にせよ心の底から本気で思ってる自分が、あの時確かにいたから。
相手を攻撃すればするほど、腹の底からわらわらと湧き上がって来るような暴力衝動。
お前の軟らかくて弱くて傷つきやすいむき出しの部分を、私の強くて硬い部分でぶちのめしてやりたい。
泣きわめけ、ひざまづけ、のたうちまわれ、命乞いをしろ、過ちを悔いて自分を呪うがいい。
殺してやる! 死ね!
そういう暴力の衝動が、確かに私の中に存在しているんだということを、あらためてありありと実感した。


そして、こういう「自分の身は自分で守る!」っていうコトバの隆盛(これのバリエーションが「私の子どもは私(=親)が守る!」とか)の危険性も強く感じた。
「自分の身は自分で守る」っていうのはもちろん大事なことだし、つき詰めれば確かにその通りなんだけどね。それに、そもそも「私は大切にされるべき存在なんだ」という感覚を持つことすら難しかった人たち(私もそうだ)が現に大勢いて、その人たちがまずは奪われた力を取り戻す必要がある、というのも当然理解できる。
でも。
私たちは現にこの世界で、好むと好まざるとにかかわらず他者と共に生きている。そしてだからこそ、他者との関係の中で私たちは、喜んだり悲しんだり驚いたり恐怖したりまた喜んだりなどなど、できる。
私は他者に傷つけられるかもしれない。私は他者を傷つけるかもしれない。そうしたリスクを含みこんだものとして、生きるという営みはある。
じゃあ、そのようなリスクを抱えながらも他者と共に生き続けるためには、どんな社会をつくっていけばいいのか。どのようなコミュニケーションが必要なのか。
そういう大きな問いがまず、あるのだと思う。その上で、私が今回学んだ防衛術なんていうのは、私が他者と共に生きていく上で負いうる致命的なリスクを回避するための、選択肢の1つであるということ。そしてあくまでも選択肢の1つでしかない(しかも他者に対して物理的な暴力を加えるわけだから、かなり極端な形の選択肢の1つであり、そうでしかない)ということ。それを、よく理解しなければいけないと思う。
「自分の身は自分で守る!」って、言っていい。言っていいという以上に、強く言わなければならない局面も、確かにある。
でも、そのコトバがどういう位置にあるのかということ、おおもとの問いは何なのかということ、を押さえておかないと、とても危険だと思う。
そんなことを、講座から少し日がたって、自分が感じたパワーと違和感を少し距離を置いて見てみることができるようになった今日、思った。