独りごち。

ここ数ヶ月、自分の中で何となくキーワード化していたのが、「ダブルスタンダード」と「薄っぺらな言葉」だった。
私が人に語りかけるメッセージと、自分自身に語りかけるメッセージのとの間の大きなギャップ。それらのメッセージが発せられる土台になっているところの、私の中の「他人向け」と「自分向け」の異なる評価基準。それが良いのか悪いのかはまた別の問題として、そういう乖離した二重基準の存在を私はどう考えるのか。
そして、小さい頃から今に至るまで「〜すべき」という言葉をよく使い、自分の弱い部分を表に出すのが苦手で、発言でも書くものでもつい小綺麗に話をまとめたがってしまう私が、自分自身の実感(ポジティブなものだけでなくネガティブなものも含めて)に基づいたリアリティのある言葉を獲得していくためには、どうすればいいのか。薄っぺらでない、自分の実感の重みを伴う言葉を持てるようになるためには、私は何をしていけばいいのか。
意識の隅っこでずっと引っかかっているこの2つの問題に対して、いつかきちんと向き合わなければいけないような気が、漠然としていた。それが、少し前に読んだ『べてるの家の「非」援助論』と、昨夜読了した森岡の『生命学に何ができるか』と『自分と向きあう「知」の方法』(こっちはウェブサイトから無料で全文ダウンロードした)を通じて、少しずつ問題の輪郭が見えてきたように思う。繰り返しになるけれど、それがいいのか悪いのかを問うのではなくて、なぜそれが私にとって問題なのか、それは私にとってどんな意味を持つのか、を問うていきたい。これからの日々の中で。
最近「したこと」ネタが少ないのは、うちにこもってたからです。今日は午後からちょっと外に出て光合成してきます。