「『苦しめたくない』 愛情ゆえに望まぬ親も」(記事の見出し)

今日はバイトは休み。普段バイト用語しか話してなくてすごく気持ち悪いのでいろいろ書かしてください。
一昨日(月曜)付の地元の新聞に、病気の子ども(ゼロ歳児が6割弱)の治療を親が拒んで受けさせない「治療拒否」のケースについての記事が載っていた。こうしたケースを経験した小児系病院は、昨年1年間だけで18%にのぼるという。2割って。すごい数じゃん。いったいどれだけ多くの子どもが犠牲になってるんだ。無知な私はこういう事例の具体的な姿は「ブラックジャックによろしく」の中で初めて知り、しかし現実世界ではあくまでも例外的にしか起きないことだろうとタカをくくっていた。なんて甘い認識だったのだろう。記事によると、親が子どもの治療を拒否する理由は「(完治が見込めない病気の子どもを)育てる自信がない」(()内は私が補足、以下同)など、子どもや家族の将来を悲観したものが最多であるとのこと。しかも、記事はそのような親の判断を容認する医師のコメントによって締めくくられていて、私はそのことにさらに衝撃を受けた。医師曰く、「愛情を持った上での(親の)決断なら、われわれはそれに従うしかないのでは」。なぜ。なぜこんなコメントで締めるのか。
その上、一方でそんな書きっぷりをしておきながら、同じページに「虐待ない社会への取り組み」という特集記事をもしゃあしゃあと掲載してしまえる新聞社のそのセンスに、私は激しい苛立ちを覚えた。こんなに明らかな自己矛盾を犯しておいて、なぜ新聞社の人たちは平気でいられるのだ?
たかだか新聞という媒体に、私が過剰反応しているだけにすぎないのかもしれない。もともと地方紙なんて、社会の問題を本気で考える場なんかではあり得ないのかもしれない。しかし、私たちの「世論」はそうした媒体を通じて形成されることもまた事実だ。
共生とかバリアフリーとか言う前に、考えねばならないことは山のようにある。