当事者主権、自己決定

中西正司・上野千鶴子「当事者主権」を読んだ。
障害者の自立生活運動を中心として、当事者の位置から社会変革を行う意義と今後の可能性についてうまくまとめられていた。特に、そうした動きを大きな見取り図の中にマッピングして提示している点が、自分の考えを進める上で参考になった。
そして、NPOについての以下の記述に驚く。
「当事者ニーズに即したサービスの需要と供給のサイクルを地域で創出し、当事者をユーザーだけでなくワーカーにもしていくことで、これまでの企業とは異なる新しい働き方をつくり出すこともできる。」(115頁)
おお。私の問題意識とかなり一致している。この前の試験の面接の時には丸っきり自分の言葉で語ってたからNPOという単語は出てこなかったけど、そうか、NPOね。最近、今まで拡散していた自分の中の問いが少しずつ凝縮されて具体化していく感じがする。もちろんこれからも紆余曲折し続けるでしょうが。


そんなふうに本書の主旨に私はおおむね賛同するのだけど、ただ「自己決定」について著者が採用している論拠には、ちょっと違和感も感じた。それは、
人が自己決定することを「侵すことのできない『権利』」と捉えている点と、
自己決定は常に最善である、という無条件の前提に立脚している点。
自立生活運動を通じて障害者が「自己決定」を勝ち取ってきた経緯を考えれば、いささか不穏当な発言かもしれないけれど。でも感じてしまった違和感は放っておけないので、少しだけ考えてみた。


まず、自己決定することを「権利」と捉える考え方によって、見落とされてしまうものがあるのではないか、と私は思う。
それは、「関わり」の持つ意味だ。
つるつるの純粋な個人の中に、「自己決定権」という属性が神聖不可侵な所与のものとして内包されている。自己決定を「権利」として捉えるときのイメージは、極論すればこのようなものだろう。
でも、自己決定って、私1人では達成され得ないはずだ。
私の自己決定は、それを私の自己決定として認識して尊重する人がいて初めて、成立するわけであって。
私の自己決定とは、所与のものではなく、私という個体に内蔵されているものでもなく、私とその人(人じゃなくてもいいけど)との「関わり」のプロセスにおいてのみ、立ち上がってくるものなのではないだろうか。
それを「私個人の権利なんだから誰も触るな」という言い方をしてしまうと、自己決定が持つ他者への開かれの可能性、および他者との「関わり」のダイナミズムと代替不可能性を、見逃してしまう気がする。
もちろん、自己決定することを徹底的に禁じられてきた人たちの経緯を見れば、現時点ではリスクを背負いつつもやはり「権利」としての自己決定を要求せざるを得ない、という切迫した状況があることも事実だろう。それは確かにそうだと思う。
でも、自己決定を「権利」として主張する一方で、そのように主張することによって見過ごされてしまう面もあるのではないか、という疑問も、同時に意識されていても良いのではないだろうか。


そして、自己決定することは、常に無条件に最善であるわけではない、とも思う。これはさらに不穏当な発言かもしれない。
でも、誤解していただきたくないのですが、私は決して「自己決定は善ではない」と言っているのではありません。そうではなくて、「自己決定は必ずしも無条件に最善というわけではない」と思うのです。自己決定することは確かに非常に高い価値を持っているけれど、それ以上の、もしくはそれとは異なる価値が、自己決定しないことにもある(場合もある)のではないか、と私は思う。
この世には、自己決定することの快がある。と同時に、自己決定しないことの快もまた、存在する。
自分で決めなくてもいい、ということの快は、確かにある。私たちの生活は、自分で決めることの快だけでなく、自分で決めないことの快によっても構成されている。
そして、それは快であり、枠であり、守りでもある。
「自己決定しないこと」に乗っかることによって、私は他なるものに律されることの快を得るし、自分をその中に入れておける枠を得るし、不安や迷いによる揺れを回避する守りを得る。
そして、自己決定しない分のエネルギーを他の活動に振り分けることも可能になるかもしれない。
自己決定しないことをめぐるそのような価値もまた、詳細に検討される必要があるのではないだろうか。
その上で、自己決定するということは、注意深く選び取られていくべきものなのではないだろうか。


まったく不勉強なので、近いうちに全面的に撤回する可能性も大アリですが、現時点で引っかかっていたことをとりあえず言葉にしてみました。
ていうか試験勉強しろよ自分。