というだけじゃ味気ないので追加。(ねたバレ含みます)

ここしばらくの作品(「海辺のカフカ」までの中・長編)では、主人公などの中心的な人物が異界(「あちら側」)の力に巻き込まれ、そこで何かを得て/何かを喪失して現実世界(「こちら側」)に帰還する、というプロットが踏襲されていて、そのラストシーンでの「こちら側への帰還」に至って読者は何らかの救済(というか浄化というか)を得ることができたのだけど、「アフターダーク」ではそうしたお馴染みの構図はほとんど受け継がれていない。もちろん異界(「あちら側」)との往還を行う人物として「エリ」が出てきたけれど、彼女は小説中ではひと言も肉声を発することはなく、いわば「あちら側」と「こちら側」を行き来する幽霊のような抽象的な存在だ。ラストシーンに描かれてはいるものの、エリを「こちら側」の世界に取り戻すという行為自体は、この小説の中心命題では全くない。従来の中・長編では、異界の不条理な力によって自分・もしくは大切な人が損なわれてしまったことへの激しい欠乏感が生々しく描写されていたことに比べると、また、異界と往還するためには入り口の石を動かしたり森に入ったり地下に潜ったり壁抜けしたりしなければならなかったことに比べると、ほとんど肉体感覚抜きで行われる今回のエリの「異界との往還」は、物語の構成要素として著しくインパクトを欠いている。でも、村上氏は実際にそのように書きたかったのだろうと思う。じゃあそんな身ぶりで彼は一体何を描こうとしたんだ?と訊かれると困ってしまうのですが、私は、従来の中・長編では「我々が生きる日常世界は決して単一の相で成り立っているわけではなく、『こちら側』とパラレルに存在する『あちら側』の世界へと人は時に否応なく引きずり込まれる」というテーマ(のようなもの)が存在したのに対して、「アフターダーク」では、その「あちら側」の世界は実はすぐ身近にまで迫っているんだよ、いや、そもそも「あちら側」と「こちら側」の区別なんて無いのだ、小説の主人公だけじゃなく他の登場人物たちも、そして今この本を読んでいる「あなた」も、いつその不条理な力に飲み込まれたとしても全く不思議じゃないんだ、というテーマ(のようなもの)が存在しているように感じた。
「こちら側」=「あちら側」。
今回の小説の中の言葉で言えば、
(「こちら側」=)都市=交換可能な記号(コンビニ、ゲームセンター、すかいらーく、ようこそデニーズにいらっしゃいました)によって成り立つ世界=情愛も矛盾もアイロニーも無くすべてが数式によって処理される世界=「アルファヴィル」(=「あちら側」)。
そして、
上記のすべての等式=小説「アフターダーク」そのもの
なのではないだろうか?
だから、この小説には感動もカタルシスもクライマックスも登場人物たちのエピソードの絡まり合いもほとんどないではないか!と言って憤慨するのはちゃんちゃらおかしい的外れ。だって「アフターダーク」は、そういう「救い」が容易に存在し得ない陳腐で不毛で交換可能で消費し尽くされた現代の私たちの世界を描いた作品なのだから。そしてそれにもかかわらず、私たちはこのろくでもない世界でどのようにして回復することが可能なのか、ということをみつめた作品なのだから。
・・・と言うとなんか村上春樹親衛隊みたいで嫌ですが、別にそういうんじゃないです。正直、今回のはアホな私にはしんどかったです。読者に迎合なんかする必要ないし頼まれたってしないだろうけど、次回作はもう少し「こなれた」感じになってるといいなあと思います。そういう意味で次に期待。
ちなみに今回の三人称の文体について「新鮮だ」「いきなり変わったね」って言ってる方もいらっしゃるみたいだけど、そんなことないよねえ?「神の子どもたちはみな踊る」でも使ってるし。三人称かどうかは別としても、人称(小説世界を切り取るフレーム、アングル)については最近かなり意識的に変えてきてたと思うし。(例えば「海辺のカフカ」の「カラスと呼ばれる少年」のとことか。)だから今回の「カメラを持った傍観者としての『私たち』」という語り手にも、別に驚きはしなかったです。むしろ、露骨なほど映画の手法を連想させる書き方を通じて「この小説は今までの小説を読むようには読めない」というメタ・メッセージを送っているのかなーと邪推してみたり。邪推だねたぶん。